プリウスの開発事例から学ぶ画期的挑戦


 トヨタ・プリウスが1997年に世界初の量産ハイブリッド車として市場に出た時は大きな衝撃を社会にもたらしました。2009年に20万8876台を売り上げ、年間の新車販売ランキング(軽自動車を除く)で1位となり、翌年は31万5669台にまで販売台数が伸びました。量産ハイブリッド車として、大ヒットしている商品です。

 量産ハイブリッド車として世の中に出るまでには、画期的な開発のドラマがあったそうです。以前、その話を当時の開発責任者であったトヨタ副社長さんの講演会で聞く機会がありましたので今回、事例として紹介します。

 開発は2期(延べたった5年)にわたって行われたそうです。

・第Ⅰ期は1993~1994年「企画検討」として、コンセプト・パッケージ・アイテム整理

・第Ⅱ期は1995~1997年「商品化」に向けて、ハイブリッド搭載・試作評価など

 発足時に、上司(社長)から①21世紀の車を創れ!、②車の開発の仕方を変えろ!との指示があったそうです。ここまでは、新規開発の号令として何ら不思議なことは感じません。ただし、思い切った発想転換として「経験の無い人がトップリーダーとして行う」ことを決めて進めたというのです。

 

 理由は、トヨタカローラを作っている者をリーダーにするとカローラを作ってしまう。クラウンを作っているリーダーはクラウンを作ってしまう。だから、既存の車を作っていない者を敢えてリーダーにしたというのです。しかもたった5年の短期間での開発です。

 これにはさすがに「無謀」と感じるところですが、そうは思わず、成功すると思う根拠があったといいます。それは、(1)アポロ計画と(2)ロケット迎撃戦闘機「秋水」の開発の成功が拠り所となっていたといいます。


 (1)アポロ計画は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画であることは言うまでもありませんが1961年5月25日、ケネディ大統領が上下両院合同議会での演説で、今後10年以内に人間を月に着陸させると表明しました。
 続けて「我々が10年以内に月に行こうなどと決めたのは、それが容易だからではありません。むしろ困難だからです」。という言葉に応えるため、スタッフは各要素技術の完成を前提に全体計画を立案して成功に導いたといわれています。

 (2)ロケット迎撃戦闘機「秋水」とは、太平洋戦争中に日本陸軍と海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機のことです。わずか1年で開発に成功し、初飛行と量産まで確立した稀有(けう)な成功例です。

 これら2つの成功事例から、副社長さんは「開発できる」と確信したそうです。また「社長がやれと言ったからやったのでは成功しない」とも言っておられました。

 

 いよいよ開発第Ⅰ期の段階で、複数部署にまたがるハイブリッドエンジン開発と技術部門をトップ直轄で一元化し、関係各部より精鋭を招集しました。その後わずか3年間の第Ⅱ期で苦しい開発が本格的に始まったそうですが、ハイブリッドエンジン開発はコスト度外視で進めたといいます。とにかく21世紀に間に合うよう、夢の車づくりが進められました。

 結果として、21世紀に間に合う形で、これまでにない自動車が世の中に登場しました。1997年度末、プリウスは世界で自動車に関する60以上の賞を総舐めにしたそうです。当然の結果と...

思います。

 講演の最後に副社長さんが言っておられた成功の秘訣です。 

 開発責任者としては、関係者のやる気・モチベーションの継続、全社の支援体制、世界初の量産化を目指す緊張感の維持に注力して、お手本が無いから自ら判断する力を信じたわけです。そして、次の3点を開発責任者として実行しました。

  1. 迅速な意思決定
  2. バックアップ案を作らない(予備としての副案があったのでは、やる気が起こらないから)
  3. 責任を取る覚悟のもとにスタッフに任せる

 

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 高い「志」と「挑戦」することの大切さを学ぶ、我が国が生み出した素晴らしい成功例だと思います。

 

 【出典】八角様 HPより、筆者のご承諾により編集して掲載

◆関連解説『技術マネジメントとは』

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